私たちはもはやどうしても「便利なもの」から脱却できません。「文明」を築いた瞬間から、私たちは「工夫」をやめません。作ることをやめません。化石燃料の燃焼が明らかに環境に対して悪影響を与えているとわかっていても、急にそれをやめるわけにはいかないのです。なぜならば、「社会の根幹」としてそのエネルギーを利用しているからです。燃焼を一斉にやめれば、これ以上環境は悪化しないのかもしれません。ですが、決して私たちはその「英断」を下しません。「考える」ことで、「作る」ことで、その状態を改善しようとするのです。
その取り組み自体が、考え方自体が自然に反しているのかもしれません。ですが、私たちが「知恵」や「探求」、「創意工夫」を奪うことは誰にもできません。もう猶予は少ないのかもしれません。環境を悪化させた「責任」を取るべきときは近いのかもしれません。ですが、考えることはどうしても、やめられません。
次の時代にあるべき自動車の姿は、人によってさまざまな考えがあるでしょう。ガソリンの代わりになにを動力源とすればいいのか、考え方はさまざまです。「電気だけに頼るわけにはいかない」という考え方も多く見られます。車自体に乗らなくてもいい社会を作ればいいのではないか、と考える人もいます。それらすべてが次世代の可能性であり、一つの「答え」なのです。
理屈では、理論的には、どのようにでも解決出来るのです。問題は、私たちの社会に馴染むかどうかということでしょう。どんな便利な技術も、使わなければ意味がありません。普及しなければ意味がないのです。「新しい技術」はたくさんあるのに、なかなか世の中が変わらないのはそのためです。
「普及すること」は簡単なことではありません。実際に、多額の費用をかければかなり先進的な動力源の自動車を作ることだって出来るのです。ですが、なかなかそれが表に出ないのは、「高いから」です。新しいインフラを構築するためには、「誰もが購入出来る」ような価格でなければいけないのです。
次世代の自動車も、そのような価格帯でなければいけません。高くて誰も買えないようなものではいけないのです。限られた人ではなく、この社会に生きる人が、一般的な家庭が気軽に導入できるような価格。それを実現しないことには新技術は浸透しません。誰も使わないのです。
そして、誰も使わなければ社会基盤としてそれを維持するような設備は拡大できません。設備が整わなければますます使う人はいなくなります。技術の革新とは、「利用者」、そしてそれをささえる「インフラ」を切り離しては考えられないのです。それらの要件を満たす車でなければ、次世代の主役にはなれないのです。
ハイブリッドカーが浸透したのは、それが従来と同じガソリンを動力源にしているからです。そして、その動力源となるガソリンの消費量を飛躍的に落とすことができたからです。経済的にも助かり、使う理由が身近なところに見出せたからです。
それらのことを満たすような技術でなければ、新しいスタンダードにはなれないのです。そのような意味では、技術はたくさんあるのに「敷居が高い」ということになります。環境問題に対しても、私たち利用者に対しても、どちらにとっても有益な新技術が必要なのです。